恋文横丁ここにありき

渋谷にはかつて「恋文横丁」という横丁がありました。
もとは「道玄坂百貨街」という商店街の奥のほうの横丁だったのですが、ここを舞台にした「恋文」という小説と映画が人気になったため、横丁には「恋文横丁」という名前がつきました。

 
恋文横丁
 

渋谷は、昭和20年の空襲で焼け野原になってしまいましたが、戦後すぐに、焼け跡にヤミ市ができました。
駅の周りにはバラックのマーケットがたくさんできましたが、現在の「渋谷109」の所には「丸国マーケット」、109に隣接する現在の「渋谷プライム」の所には「道玄坂百貨街」というマーケットが形成されました。
道玄坂百貨街は奥のほうへ伸びて、路地は迷路のようになっていて、現在のヤマダ電機の所まで、引揚者や復員者の開いた店がぎっしりと軒を連ねました。
道玄坂百貨街は、店舗数が多く、渋谷最大のマーケットでした。

 
1949年の地図(クリックすると大きくなります)↓
1949年の三角地帯
 

1950年代に入ると、この一帯は、餃子、満洲料理、蒙古料理、ロシア料理、台湾料理など、外地料理のレストランが集まるメッカになりました。
地図をよく見ると、「サモワール」(1950年創業)、「珉珉」(1952年創業)、「麗郷」(1955年創業)など、懐かしい店名が見えます。
いずれも繁盛店で、恋文横丁を立ち退いて移転した後も、長く人気を維持したお店です。ご記憶のかたも多いことでしょう。

 
1960年の地図(クリックすると大きくなります)↓
1960年の三角地帯
 

丹羽文雄の1953年の新聞連載小説「恋文」は、横丁に実在した恋文屋が舞台になっています。
モデルになったのは、菅谷篤二さんという恋文の代筆屋さんです。菅谷さんは、この一角に店を構えて、日本女性と米兵の仲をとりもつラブレターの代筆をしていました。
地図の真ん中あたりに、菅谷さんの「手紙の店」が確認できます。隣は「大黄河」という餃子店です。

恋文の代筆を生業にしていた菅谷さんに特別な親近感を覚えるのは、私の職業柄でしょうか。私たち行政書士の仕事も、依頼者に代わって書類を作成して依頼者の願いを叶えようとする点において、恋文の代筆と変わらないものがあります。

恋文横丁の跡地は、現在はヤマダ電機になっています。
横丁は跡形もなく消えてしまって、路地を歩くことはもうできませんが、いちど訪れてみてください。

 
現在の地図↓
現在の三角地帯
 

動画あります:
1948年の渋谷
1953年の渋谷駅前

 

菅谷さんかく語りき

1966年、菅谷篤二さんは東京12チャンネルのドキュメンタリー番組「私の昭和史」に出演して、思い出話を語っています。
菅谷さんの語りの一部を抜粋してご紹介します。聞き手は三國一朗さんです。

── 外国語のほうは、どういうふうに研究なさいましたか?
菅谷 子どものとき、尋常四年から英語をやりました。
(陸軍)幼年学校へは十五歳で入りましてね、そこではフランス語をやりまして、これはもう好きだったものですから、バルザック、モーパッサンの全集を買いまして、片っ端から読んだものです。消灯になりますと、便所の中にまで持ち込みましてね。そうしてフランス語を勉強しました。
あと昭和二年に任官しまして、中尉のとき、東京外語へ委託学生として入りました。
── よほどご成績がよかったわけですね。
菅谷 割合によかったと思います。で、そこでやりましたので、多少自信はありました。

陸軍士官学校出身の菅谷さんの軍歴は、技術本部、北支那方面軍参謀、大本営仏印派遣委員、参謀本部など、十八年余りに及びます。

── 特務機関のほうにもご関係があったそうですね?
菅谷 終戦のときはタイの菅谷機関というのをやっておりました。
そして一年ほど抑留されまして、引き揚げてきたのです。

1948年、菅谷さんは渋谷の道玄坂百貨街の横丁で商売を始めます。
創業した時は古着屋だったそうで、開業初期の話はたいへんユニークです。

── どんなお店をお出しになりました?
菅谷 食わなきゃなりませんから、とにかく場所のよさで商売を始めなければいかんというので、いろんなものをみんな売っぱらって、店は買ったものの、商品を仕入れる資金がない。それで、身ぐるみみな脱ぎましてね、軍服をありったけ並べたわけです。
結構それが売れまして、やっているうちに、同期生の軍服、上官の軍服、そういうものが集まってきましてね、そうしているうちに、もう軍服は売りつくしたので、ネックレスとか貴金属とかを持ってきて、「これを売ってくれたら一割やる」というようなことなんです。
すると、ワシントンハイツの(米軍の)奥さん連が集まってくるようになりまして、「欲しいけどお金がない」と言うので物々交換をやりました。奥さんはすぐ車で帰って、着替えてきて、オーバーとスーツをネックレスに換えるわけです。こうして、軍服の代わりに最新流行のアメリカのスーツが集まるようになりました。
当時、これを買えるのは相当にハイカラな人で…、そこで、向こうさんとつき合っている女性たちが集まってくる…。連中がいちばん景気のいい連中で、そういうものが買えるんですね。そのバックは進駐軍ですよね。
── なかなか「恋文」が出てきませんが。(笑)
菅谷 そこですよ。その連中はアメリカ兵から手紙をもらっていますよね。
私の店に外人がいろいろ出入りするのを見て、「おじさん、英語読める?」と言うので、「では、ひとつ読んであげましょう」ということになり、「じゃ、ついでに返事も書いてくれない?」ということになって…。
そうやって口から口へと伝えられて、恋文業のほうが忙しくなって、結局それが本職になったようなわけです。

 
菅谷篤二さん
 

恋文屋の使命感について。

── いろんなお客がきたでしょうね。
菅谷 いちばん初期の客はね、みんな、とにかくスイトンを食べている時代ですから、荒っぽい女が多かったですね。とにかく、お金目あての連中でね。
また、質のいい人は、みんなアメリカの兵隊にだまされちゃってね。たとえば女子大の英文科を出て進駐軍につとめているというのは、たいへんにあこがれの職業ではあったのですけどねえ。
── なるほどねえ。
菅谷 これじゃいかんと思ったわけです。アメリカに負けたからといって、日本の女性がだまされて捨てられるのを見逃すことはできん。
これは男と女の戦いですよ。この戦いに負けないように、手助けをしてやらなきゃという気持ちなんですね。

恋文屋商売のコツについて。

── 恋の指南番といったところですね?
菅谷 だいたい、最初から手紙を書きますときにね、目的をはっきりさせるんですよ。結婚か、金か、あるいは純粋のラブであるのかとか…。
とにかく相手が結婚にふさわしいという相手だったら、なんとか手をつくして結婚にまでもっていくように全力をあげる。
── そうすると菅谷さんのお得意の「作戦要務令」ですね。
菅谷 こいつはね、まことに威力を発揮しますなあ。恋愛戦線にも大いに…。
── 作戦活動の具体例を一つご披露ください。
菅谷 それはね、手紙を毎日毎日書きたいと言って女がきても、「君の手紙は一週間待て」とか、指示するわけです。「とにかく、あんまり出しすぎてはいかん」と…。
向こうの手紙の様子を見てね。向こうの返事が遅いようなのに対しては、こっちもピタッとやめさせて様子を見るんです。
場合によっては「転進」を命ずることもありますしね。
── ラブレターで相手をコロッといかせる秘訣というものはどういうことでしょう?
菅谷 それはやはり誠心誠意ですねえ。

1950年6月、朝鮮戦争勃発。

── 焼け跡のバラックのマーケットのころから恋文横丁が終幕を迎えることになるまで、いちばんお忙しかったのはいつごろですか?
菅谷 やはり朝鮮戦争ですね。こいつはたいへんなものでした。朝鮮にいくので別れなければなりませんしね。
兵隊さんは、一年に二回休暇があるんですよ。一週間ずつのね。その休暇に、みな東京へ送り返されるんです。それがたいへんな数なんですね。
店を朝一〇時に開くんですが、九時ごろからきて列をつくってるんですよ。飲みながらやってますと、一升びんが空になってね、終電車に遅れることもありました。

1953年7月、朝鮮戦争休戦。米兵帰国。
同年12月、新東宝の映画「恋文」(田中絹代第一回監督作品)が公開されます。代筆屋を演じたのは宇野重吉さんです。
「恋文」人気にあやかって、道玄坂百貨街の横丁は「恋文横丁」を名乗るようになります。

 
1958年3月撮影↓
手紙の店
 

── 今までに、めでたく結ばれたのは、どのくらいになりますか?
菅谷 そうですね。三〇〇組くらいではないでしょうか。
── いよいよ立ち退かれるということになったのはいつですか?
菅谷 昭和三十八年です。

1963年8月、長谷川スカイラインビル竣工。恋文横丁の該当範囲は消滅しました。
菅谷さんの「手紙の店」は近所へ移転して営業を継続します。

── 今は、どんなお客さんがきますか?
菅谷 最近は、一流ナイトクラブのホステスとか、ショーのダンサーとかが多いですね。ほとんどもう結婚の手続きなんかですがね。
戸籍謄本を英訳するというのは、これはなかなかややこしいんですよ。三通作りまして、向こうで手続きするわけです。
── このお仕事はこれからも?
菅谷 ええ、今の店は溜まり場のようになっているんです。いつまでも続けたいですね。


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